先日、ある人気俳優がトランスジェンダーと無性愛者であることを公表した。
僕はこのニュースにどこか親近感があった。
僕は相手の「感情」を受け取ることが苦手だ。
苦手という表現もまた難しくて、僕の場合、裏の裏を読みすぎる、考えすぎているが故に感情を素直に受け取れない気がする。例えば、相手が笑っていたとしても、それが心無い愛想笑いにも思えるし、笑うことで相手を侮辱する冷やかしにも思える。もちろん、素直に笑ってくれているとも思うが、選択肢が多すぎる。
「笑う」という数値が100%だとすると、選択肢が増えれば増えるほど50%、35%、25%…と感情自体が薄れていく。
だから、僕は感情と向き合うことが苦手なのだ。
感情は、喜怒哀楽の他に「愛情」も含まれるので、先ほどの話は愛情にも共通する。ましてや、愛情は他の感情より複雑だが、一番求められやすい感情だ。
特に愛情表現で使われる言葉が「好き」だ。
「好き」という言葉には「LIKE」と「LOVE」の二種類がある。これだけでも複雑なのに、言葉のイントネーションやシチュエーションで意味が全然変わってくる。
「好き。」「好き!」「好き?」「好きー。」「好き~。」「好き♡」「好き…」
この中のどれが「LIKE」か「LOVE」を見極めるのは至難の業だ。
また「大好き」という言葉も別の複雑さを持つ。
単純に考えれば「大きな好き」という意味だが、大きくなればなるほど信憑性が薄れる。
「大大大大大大大大だーいすき!」
見るからにバカップルの表現だ。
ここで終わったらただの童貞のこじらせた言い訳に過ぎないのだが、僕にはもうひとつの悩みがある。
この悩みこそが、無性愛に繋がると思っている。
それが、恋人と友達の境目が無いことだ。
僕の友達の最終履歴は中学生なので、古い記憶を遡るしかないのだが、その頃の僕は俗に言う「メンヘラ」だったと思う。
よく会う近所の友達と少しの時間でもわざわざ時間を作って、友達の家で遊んで、たまに友達の都合で遊べなくなるとすごく悲しくて、怒りすら感じていた。
やがて、その怒りがその友達と遊ぶことの楽しさに繋がり、次第に遊んでも全然楽しくなくなり、その友達とは知らず知らずに関係性は消滅した。
僕が全然友達が作れないのは、僕のメンヘラ性格が生んだ当然の結果だが、この数少ない人間関係で思うことは「その人といて楽しいかどうか」だ。
この楽しいという感情は、僕にとっては「LIKE」でもあり「LOVE」でもある。だから、相手が女性でも男性でも、その人といて楽しいのであればわざわざ性別にこだわる必要はないのかなと思う。
しかし、それが世間の「恋人関係」といえる関係性なのか。
これは「LIKE」なのか、「LOVE」なのか。
そこに愛はあるんか。
そう考えていると、自分は愛情を求めない無性愛者なのかと、ふと思うが、多分違う。
モテないだけだ。