鷲尾翼のブログ

【エッセイ】#57『夜に駆ける』

 最近、毎日必ずといってもいいほど聞いてる曲がある。それが、YOASOBIの「夜に駆ける」だ。

 この楽曲は2019年12月にリリースされ、今日までの約半年間で公式MVの再生数が約1500万回再生を記録するほどの流行曲だ。

 また、小説投稿サイトに投稿された星野舞夜著「タナトスの誘惑」を元に作詞作曲されたことにも注目されている。

 曲調は、アップテンポな打ち込みリズムに、ボーカルのikuraの表現力豊かな歌声が特徴だ。

 本来ならこのブログで「1分で伝わる好きな音楽」という楽曲解説で好き勝手語りたいのだが、少し変わった思いがあり、ここに記す。

 

 この楽曲を分析してするにあたって切っても切れない重要な表現がある。それが「自殺を示唆する表現」だ。

 原作小説の「タナトスの誘惑」を読むと、自殺の表現がより伝わる。本題の「タナトス」という言葉がギリシャ神話の死神で「死への誘惑」という意味もある。登場人物も自殺願望がある女性と、それを止めようと奮闘する男性の二人組のカップルで、そこから死を巡って物語が進んでいく。気になる方は、一度「タナトスの誘惑」を読むといい。

 

 僕がこの「夜に駆ける」を聴き始めたすぐの頃に、小説が原作だと知った。その時はYouTubeのコメント欄だったが、そのコメント欄の最後に「小説を読んでから聞くと何倍も面白くなるから読んで!」とよくある文章が書いてあった。

 そこから、この曲は「自殺」をテーマであることを知ったのだが、ふと引っ掛かる表現がある。それが「自殺=面白い」と受け取れてしまうことだ。

 もちろん、小説としての評価で「面白い」という言葉を使っているのは理解できる。しかし、1500万回以上の再生されている若者の流行歌で何人の人が「死」を理解しているのかと思うと少し恐怖を感じる。

 

 少し前に「100日後に死ぬワニ」が大流行した。

 死へのカウントダウンを予告した上で進んでいくSNSの4コマ漫画は運命の「100日目」を前に連日ワイドショーにも取り上げられるほど、日本中が結末に注目した。

 そして、運命の「100日後」の日に、定期的に更新されていた漫画が少し更新が遅れた。すると、SNSでは「早く死ね」と心ない言葉が更新されるまでの間続いた。結局、最終話は更新され、例の炎上騒動もあったが、大反響の中幕を閉じた。

 しかし、僕はあの更新が遅れたときの世間の反応が悲しくて記憶に残っている。

 

 あれだけ好きな楽曲だったのに、どこか最初に聞いたときの好意が薄れているようにも思える。やはり「面白い」という言葉は「死」に対しては相性が悪い。

 この死への流行にここ数日こんなイメージが過る。

 

 ビルから今にも飛び降りそうとしている人に、ビルの下でスマホ片手に撮影している人混みがいる。その状況に諦めたようにビルから飛び降りる。血まみれの姿に群衆はシャッターの光と音と共に、歓声を上げる。

 

 この群衆の数が1500万という数だったら…。

 歌うことが「歓声」になってしまうのか…。

 自殺願望がある人がこの楽曲を聞いたときにどう思うのか…。

 

 色々考えてしまうと「お前の頭が固いんだよ!バカ」と言われそうだが、ふと自分の過去を振り返ると「死の表現」に対して音楽家として考えたことがある。

 僕が音楽家を目指す上で「星野源」という存在は欠かせない。その理由のひとつに「ストレートな死への表現」に惹かれたからだ。代表的なのが「バイト」という楽曲で歌い出しに「殺してやりたい人はいるけれど」と始まる。

 それまでの僕は、好きなミュージシャンの曲を自作のプレイリストで何度も聞くより、ipodに入っている洋楽・邦楽などのジャンル問わずシャッフルで聴いていた。それも80~90年代などの昭和歌謡や2000年代の懐メロなどが収録されているオムニバスアルバムを好んでいた聴いていた。

 しかし、今となって思うがこれらはその年代の流行歌に過ぎない。そのため、メッセージ性も年代にもよるが応援ソングに近いものが多かった。

 その中での星野源のストレートな死に対する歌詞が当時の僕に響いた。その頃から自作曲を作り始めたが、その歌詞に中に死を示唆する表現をよく使っていた。

 しかし、星野源自身近年のインタビューで「くも膜下出血で生死を彷徨って、あの頃の『死の表現』はただのナルシシズムに過ぎない」と語るほど、近年の音楽活動は変化している。

 

 その頃の僕は死の表現を少しずつサブリミナル的に隠すことで、「自分の音楽を聴く=知らない間に自分の心の闇を伝える」という仕掛けを計画していた。しかし、「夜に駆ける」の一連のことを踏まえて、色々音楽家としての考え方が変わりつつある。

 何度も言うが「死」は面白いことではない。しかし、小説や映画などで「死」を扱うことに関しては時に大切だ。「生きる」ことを伝えるために「死」も表現しなければいけないときもある。

 僕は音楽家、文筆家、画家として活動している。これらの活動にも「死」への表現は時に欠かせないものだ。だからこそ、「死」を扱う際にはより真剣に、より真面目に考えなければいけない。

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