鷲尾翼のブログ

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音楽の話や連載エッセイ、ラジオの放送後記を随時アップ!

【エッセイ】#24『何気ない家族/クレイマー、クレイマー』

 ある雨の日、僕はいつものように映画館で映画を楽しんでいた。

 上映が終わった頃はちょうどサラリーマンが目立つ昼時だった。僕もお腹が減っていたので傘をたたみ、近くのファミレスに入った。

 

 しばらくメニューを眺め、僕はチキン南蛮のセットを頼んだ。少し時間が経ち、隣のテーブル席に小学生ぐらいの男の子を連れた3人家族が座った。

 その家族の会話は周りより少し声が大きく、笑い声はそれ以上。それに加えて、店員さんを呼んでからメニューを開き吟味し始めた。店員さんも思わずその場から離れようとすると「これから頼むから」とその店員さんを離さない。

 結局、その家族はおすすめメニューとドリンクバーを頼んで、周りより一際目立ちながら店を出ていった。

 

 僕はとっくにチキン南蛮のセットを食べ終わっていたが、その家族と何かしらの原因で接触することを恐れて、あの家族が離れるまでその場を動けなかった。

 ファミレスを出て、とりあえず近くのコーヒーショップに向かい、Sサイズのアイスコーヒーを頼み、先ほどの出来事について考えてみた。

 

 まず、チキン南蛮がびっくりするぐらい不味かった。

 甘酢が喉に刺さるほど酸っぱく、タルタルソースも具入りのマヨネーズ。そして、肝心の鶏肉が繊維を束ねたようにボロボロで、肉汁を忘れたパサパサ感。

 あのセットで一番美味しかったのは、ご飯とみそ汁だったことは忘れない。

 

 次に、あの家族だ。

 シンプルにマナーが悪い。このご時世、他人と会話をするなら、簡潔に言いたいことをまとめることが素晴らしい。そして、散々店員を離さなかった挙句に諦めたようにメニューの表紙にあるオススメメニューを頼んだのは、敗北の象徴だ。

 

 そして「良い家族像」についても考えてみた。

 理想の家族像に求めるものは人それぞれで、子供思いなのか、家事や育児に熱心か、楽しい思い出を家族で作れるか、本当に様々だ。

 家庭的な男性に至っては「イクメン」と称される。子供と特に接している女性にとってこの評価は嬉しいことなのかは僕には分からないが、良い家族像について言えることがひとつだけある。

 

 良い家族とは、目立たない家族のことだ。

 母や父、その子供の個性で家族が目立つことはあるが、一般的な収入で、変わらぬ愛情で、普通に家事や育児に励み、人目から離れ、普通に思い出を作れることは素晴らしいことだ。

 たまにそれを「当たり前」と言う人もいるが、その人より誇らしい環境があることをその人は知らない。

 

    僕も知らないけど。

 

 ちょうどアイスコーヒーを飲み終え、ふと街並みを眺めると、雨が先ほどよりも強く降っていた。僕はホットコーヒーを頼み、もう少しゆっくりと時間を過ごすことにした。

 

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【本日の映画】
監督・脚本:ロバート・ベントン
出演:ダスティン・ホフマンメリル・ストリープジャスティン・ヘンリー、ジェーン・アレクサンダーなど
制作:1979
離婚と養育権という、現代アメリカが避けて通れない社会問題をハートウォームな人情劇を通して描いた80年の代表作品。
 
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【エッセイ】#23『遠い街角でいつか/ミルク』

 ある日、こんなCMを目にした。

 

 ユニクロのCMで、桑田佳祐の「遠い街角(The wanderin' street)」と共に、同居している女性二人の映像が流れる。そこに花屋の店員役で出演している綾瀬はるかのナレーションでこう綴られている。

 

 「一緒に住む。一緒に食べる。一緒に眠る。」

 「二人がしたいことは、みんなが普段着でしていること。ただそれだけなのだ。」

 

 少し前までこのような関係性は冷ややかな目で見られる対象だったが、今の多様性の時代とともに、受け入れられている。

 僕は、このCMを見て、違和感を持たず、むしろ憧れのようにも感じた。この反応は今の時代を生きているから思うことなのか、または僕自身がこの関係性を望んでいるのか。

 正直、どちらともいえないが、どちらともいえるような難解な話だ。

 

 僕が覚えている限り、少し前の僕は同性愛は否定的な考えだった。

 周りを見れば、男性と女性という異性同士が付き合ったり、結婚したりして、それが当たり前だと思っていた。また、テレビではオネェタレントがブームで色んな番組でイケメン俳優にリアクションをしている時代だ。

 この時代はゲイと呼ばれる人はキャラクター化されて、レズビアンの人は異様な存在に感じた。そのせいか「同性愛」という言葉すら知らなかった。

 

 時は流れ、映画やドラマで同性愛を描かれることが多くなった。

 それと同時期の僕は映画が好きになり、多い時には週に6-8本観ることは当たり前だった。様々なジャンルや時代の映画を観ると「同性愛」をテーマにしている作品にも触れる機会が多くなった。

 その時期から「同性愛」という関係性に対する違和感が気づいたら消えていた。

 

 僕は同性愛については、何度も考えてしまう。

 僕は相手に尽くしてしまう人間だと思う。簡単に言えば自分勝手なメンヘラで、何度も相手を困らせて、何度も友達と呼んでいた人が離れていった。

 僕にとって人と何気ない時間を過ごせる関係性はものすごく貴重なことだ。それが恋人関係であろうと、気軽な友達であろうと、女性でも、男性でも、ものすごく嬉しいことだ。

 それが度が過ぎて人間関係に対してコンプレックスを今でも抱えている。

 

 何気ない時間に会えるような関係が嬉しい僕にとって、異性だろうと、同性だろうと関係ない。

 そこに愛があるから、会いたいと思うのだろう。

 

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【本日の映画】
制作:2008
1970年代のアメリカで、同性愛者であることを公表して公職に就いたアメリカ初の政治家ハーヴェイ・ミルクの生き様を描く伝記ドラマ。同役ですでに多数の映画賞を制覇しているショーンの熱演と、今なお尊敬の念を集めるミルクの愛すべき人柄をフィルムに焼き付けたガス・ヴァン・サントの手腕を堪能したい。
 
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【エッセイ】#22『くだらなく、ダラダラと。/ビッグ・リボウスキ』

 はぁー、何もしたくない。

 今こうやって毎週金曜日に更新しているエッセイを書いているが、正直やりたくない。締切に追われる文筆業は、残業に近い。

 

 そもそも「仕事」とは何か。

 仕事と楽しいことの違いは何か。

 

 僕は音楽家、文筆家、芸術家の三足の草鞋で活動しているが、きっかけはその活動が好きだからだ。

 音楽を聴いているときも、楽器を弾いているときも、楽曲を作ることも、好きだから「音楽家」と名乗った。

 何気ない日常も、辛かった過去も、これからの未来も、エッセイで伝えたいことが好きだから「文筆家」と名乗った。

 音では表せない、文字では表せない、内に秘めたパンクな爆発力を芸術で表現することが好きだから「芸術家」と名乗った。

 

 元々「好き」という動力で活動してきたが、そこにあらゆる枷をかけられることで「仕事」へと変貌する。

 例えば「締切」というものは時間を制限することはもちろん、クオリティにも関わる。締切を上手に駆使しないと、不完全なものを完成品と偽って、創作した本人も悔いが残る残念な結果が待っている。

 他にも自分のやりたいこととは違う方向で創作活動が進んだり、その環境に不満があれば「好き」という活力はどこかに消えて、ただ目の前の課題をこなしていくしかない。

 これが「仕事」だ。

 

 仕事と好きの両立は難しい。

 だからこそ僕はくだらないく、ダラダラと過ごすことが重要だと思う。

 

 恋人や友人、仕事仲間などの人間関係は今後の人生で重要な関係性だ。関係性を築くきっかけは、共通の趣味や好きな食べ物と様々だ。しかし、僕は「くだらなさ」を共感し合える存在がいい。

 くだらないことは創作業には大切で、自分が面白いと思うこと、それを日常に反映出来る能力、その価値観を表す重要なことだ。その感性を分かち合い、笑い合えることは友情や愛情に並び、大切なことだ。

 

 僕はメディアとは程遠い存在だが、もしテレビや雑誌、ラジオで活躍する頃にはあの頃の「好き」という感情や原動力は無くなっているだろう。

 そういうときは、僅かな休日や何気ない日常をダラダラと過ごし、くだらなさを分かち合える人間関係を大切にするだけでいい。

 

 ただし、くだらなさを求めたり、過度に守ること、それはひとつの仕事だ。ダラダラと過ごせる日々が、どこか羨ましい。

 

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【本日の映画】
監督・脚本:ジョエル・コーエン
出演:ジェフ・ブリッジズ、ジョン・グッドマンスティーヴ・ブシェミなど
制作:1998
 鬼才コーエン兄弟が放つ、奇妙で可笑しい人間ドラマ。同姓同名の人物と間違われた男が巻き込まれる事件の顛末を、多彩なキャラクターを交えながらユーモラスに描く。『ファーゴ』で見せた人間の滑稽さをクローズ・アップ。コーエン兄弟お得意の不条理な可笑しさに満ちた傑作。
 
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【エッセイ】#21『1時間の人生/きみに読む物語』

 僕には叶えたい、というより、やり残したいことがある。

 それは、人生の記録の一冊の本に残すことだ。

 

 僕は今、23年という短い時間を過ごしてきたが、他の人より過酷な時間を過ごしてきたと思っている。

 学校生活で言えば、小学校、中学校、高校とそれぞれの環境でいじめられたり、精神的に参ってしまう、言わば鬱のような状態を12年間過ごしてきた。それから、環境が変わればまた鬱になり、今現在、音楽家、文筆家、芸術家と三足の草鞋という未開の地でただひとり苦しみ、もがきながら、自分で選んだ道を時に後悔しながらも活動をしている。

 そして、この三足の草鞋の人生に、正解はない。なので、これからも過酷な人生を歩み、死んでゆくだろう。

 

 もちろん、成功を掴み、テレビや雑誌、ラジオなどのメディアに出て、ある人の憧れの対象になりたい。しかし、このままでは、ただの自信過剰な愚か者だ。

 そんな自分が唯一凄味の人に与えるには、膨大な時間と経験を手頃に提供することだ。

 そのためには、先ほどの学生時代の話や苦労、今、そしてこれからの出来事を記録として残す必要がある。

 

 ある人は人生を「1時間のドラマ」と例えた。

 人生を長針、短針で表す一周60分の時計で、1年を1分とする。最初の20分、つまり20歳になるまでは主人公の性格、働いている場所、人間関係など、人生の説明や軸を紹介、形成している。

 30歳、40歳と迎えれば、その都度ある転機が訪れ、ドラマの展開となる。そして、クライマックスの50分辺りになれば、そのドラマは結末を迎える。

 

 誰がこの例えを言ったのか、未だに思い出せないが、僕の人生を表すには一番の例えだ。

 そう考えると、僕の人生はノンフィクションだが、少しフィクションも混じる一つの純小説なのだろう。

 

 この題名のない純小説を誰かが読んでいる頃には、僕は死んでいる。ましてや、この純小説を読まれない可能性だってある。

    僕が孤独死を迎え、廃れて、少し溶けてしまうほど時が過ぎた時に、何も知らない清掃員に捨てられてしまうほうが、正直可能性が高い。

 

 僕が死んでいる以上、抵抗も悪足掻きも出来ない未来を信じるしかない。

    そして、こうやって僕は文筆家としてひとつの時間の経過を、文字に起こして余生を迎えるしかない。

 

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【本日の映画】

監督:ニック・カサヴェテス
出演:ライアン・ゴズリングレイチェル・マクアダムス
制作:2004
『メッセージ・イン・ア・ボトル』などで知られるニコラス・パークスのベストセラー小説を映画化。身分違いの純愛を貫く若き恋人同士の情熱的な愛と彼らの行く末がつづられる。

 

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【エッセイ】#20『着こなす/プラダを着た悪魔』

 僕はオシャレではない。

 というか、自分から「オシャレなんです」というもんじゃない。

 

 オシャレという言葉は、すごく曖昧だ。

 ファッションセンスが優れていることの総称とも違うし、ブランドものを身につけてるからオシャレというわけでもない。結局はその人が好きな服を着て、たまたま褒められているだけだ。

 

 僕が思うに、オシャレの別名は「着こなす」だ。

    たまたま服を褒められた、その偶然の確率を上げた人が、服を着こなしている人だ。

 

 僕は神社仏閣巡りで御朱印を集めることが趣味だ。

 御朱印を集めることもひとつの理由で、当然だがそこの神社の御利益や日頃の感謝を伝えるのが優先すべきことだ。

 二礼二拍手一礼、そして御朱印を頂いた後、ベンチに座ってゆっくり休んで他の参拝客を見ると、少し面白い。

 

 老若男女問わず様々な年齢層の人が神社に訪れ、友達同士やデート中のカップル、マダムな人達から老夫婦まで、いつもの嫌味や偏見を探す人間観察とは違うほっこりした時間を楽しんでいる。

 そんな人間観察を楽しんでいるうちに、その人のファッションにも少しだが興味を持つようになった。

 

 自己主張が強い人はクドい蛍光色の服で揃えるし、都心で働くサラリーマンの腕時計は煩いから、信用できない。還暦を迎えているだろうおじいさんがファッションで茶色いスーツを着てコーヒーを楽しんでいると、未来がどこか温かい。

 

 確かに人間観察とはいえ、偏見を織り交ぜてはいけない。しかし、普段その人が隠しておきたいこと、コンプレックスのような部分はどこかファッションに反映されている気がする。

 そう思って神社仏閣を巡った帰りに洋服を1-2着購入すると、必ずと言っていいほど失敗する。もうすぐ夏なのに、厚手の春物を急いで買ったりしてしまう。後、買い物全般だが買うまでが欲求のピークで、買った後から熱が冷めていく。

 

 まだ僕は、オシャレに急がなくていいようだ。着こなしている人たちを眺めているだけで、それでいい。

 

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【本日の映画】
監督:デヴィッド・フランケル
制作:2006
ローレン・ワイズバーガーの同名のベストセラー小説を映画化した、ハートウォーミングな女性映画。ゴージャスなファッション業界誌の舞台裏をコミカルにみせる。
 
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【エッセイ】#19『天才という称号/ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』

 世の中には「天才」と呼ばれる人がいる。

 学問の天才、スポーツの天才、芸術の天才…数多とあるジャンルには、第一線で活躍する人がいる。

 天才と呼ばれる人もまたそれぞれで、幼い頃から努力を積み重ねて活躍する人もいれば、天性の才能、そのカリスマ性で自然と「天才」と呼ばれてしまう人もいる。

 人は「天才」と言う称号に憧れる。

 人からそう呼ばれたいがために、各々限りある時間を割いて他の人より勉強したり練習したりする。僕もそのひとりだが、天才を追うごとにあることに気づいた。

 それは、天才とは、努力や才能の他に「知名度」が重要だと言うことだ。

 

 例えば、「○○検定1級」みたいな取ることが難しい資格や、免許、憧れてた楽器を弾くことは、実は時間とお金さえあれば案外難しいことではない。

 才能に関しては、その人を表すもので、正解がない。なので優劣の差がついてしまうが、努力をすればその人にしか生み出せない個性となり、武器になる。

 しかし、これらを表に出さなければ、無意味だ。

 

 僕は、自分を表現することが苦手だ。

 音楽家、文筆家、芸術家と三足の草鞋を掲げながら活動をしているが、実際はそれらを自信を持って活動をしていない。

 こうやって文筆業はしているが、芸術家と語れるほど作品を生み出していない。特に音楽業は自作曲をここ何年も作ってないし、ライブも出たことがない。また、メディアで活躍している天才に触れる機会も多いので、自分の才能の無さに日々落ち込んでしまう。

 

 音楽業と芸術業を疎かにしている分、僕は趣味の映画鑑賞から、映画感想の執筆とラジオブログを頻繁に投稿している。

 これを音楽家がやることなのか、芸術家がやることなのか。きっと間違っているとは思うが、今の僕にはこれが精一杯なのだ。

 

 しかし、現状僕は知名度が少ない。

 SNSのフォロワー数は平均で80も満たない。テレビでは自分より年下の人が活躍している。そういうカリスマ性のある人はSNSのフォロワー数も何万人、何十万人がいる。羨ましい。

 

 このままの僕は、才能と努力を積み上げたままボロボロになって死ぬだろう。死んだ後に自分の枯れた才能を認められて、天才と呼ばれるのは皮肉だが、それでも嬉しい。

 天才とは、知名度が無ければ、唯一無二の存在でも滅んでしまう他者評価に過ぎない。

 

 なんか、生きづらいね。

 

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【本日の映画】
制作:2001
テネンバウム家の3人の子供たちは、長男はビジネスマンとして、長女は作家として、次男はテニス・プレイヤーとして10代のうちに成功し、天才児と呼ばれていた。しかしそれから20年後、彼等はそれぞれ問題を抱えていた。そんな時、死期が近いという父親の呼びかけで一緒に暮らすことになる。
 
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【エッセイ】#18『成功に執着する呪縛/ウルフ・オブ・ウォールストリート』

 僕は「成功者」という称号を憧れてしまう。

 何をもって成功しているかはその人次第で、僕自身も正確な目標を定めていない。しかし、成功の二文字にはどうしても執着してしまう。

 高々と聳え立つタワーマンションに住んでいるのは、明らかな成功者だ。仕事や金銭面に苦しみながら住んでいるとは到底思えない。他にも、自然豊かで物静かな場所でのんびり暮らすのもその一種だ。

 富、名声、力。この世の全てを手に入れた姿が、成功だ。

 

 僕がこんなに成功者に憧れ、執着しているのか。

 そのきっかけは地元の図書館だと思う。

 

 僕は生粋の読書オンチだ。

 活字をじっくり見るとページをめくることは出来ないので、未だに小説を楽しむことが出来ない。そして、漫画も読めない。

 僕にとって漫画は、複雑な情報を過剰摂取しているような感覚になる。伏線が散りばめられているストーリーを軸に、キャラクターのビジュアル、アクション、その流れるように描かれる絵の多さに、一巻の途中でドッと疲れてしまうほどのオンチっぷりだ。

 今では自分なりの読むペースを身につけ、克服しつつあるが、調子に乗ってAmazonで気になる本を爆買いしたときは毎度後悔する。

 

 そんな読書オンチな僕でも、読書の重要性は重々承知だ。

 僕も文筆業を始めて思うことが、一冊の本を作ることはかなりの時間と労力が必要だ。きっと何十万字という膨大な文字数を書くことは、そこまで大変じゃない。しかし、その内容を書くための経験、エピソードには何年、何十年と、その人の生涯を表している希少価値がある。

 そんな貴重な一冊に気軽に触れられる今の時代だからこそ、本を読むことは重要なのだ。

 

 高校を卒業して少し経った頃、それに気づいた僕は実家の近くの図書館に向かった。そして何となく手に取った「○○の仕事術」と誰が書いて何の仕事術かも忘れてしまったビジネス本を借りて、軽く読んでみた。

 各章のタイトル自体が「○○しなさい」と単刀直入に仕事術を言ったり、「ここがポイント!」みたいな行はちゃんと太字で書かれている。しかも章の終わりのは「第1章のまとめ」と長々と語っていた話を1ページにまとまっていたりと、読書オンチの僕のは少ない情報量でそれ以上の価値を感じる魅力、そして「読書オンチの僕が本を読んでいる」という客観に誇らしく思い、ビジネス本を愛読した。

 

 図書館に行けば「自己啓発・ビジネス」のカテゴリーの本をよく読んだし、Amazonでビジネス系のベストセラーを購読した。「○○すると作業効率が30%アップする」とか「○○をしている人は、上位数%」という見出しに触れまくると、次第に「成功」に執着してしまう。

 

 「成功」と名が付いた本を何十冊も読んでいるのに、当の本人は成功を掴んでいない。その矛盾が、この呪縛を生んでいると思う。

 そして、一通りのビジネス本を読み、飽きていた時、ふとあることに気づいてしまった。

 

 成功には、カリスマ性が必要だ。

 どんだけ成功の秘訣を身につけても、誰にも負けない技術を発揮しても、その人の生まれ持ったカリスマ性には敵わない。

 ゲームでも、どれだけ強い武器や防具を身につけてもレベルが5とかだったら、その強いアイテムすら自分のものに出来ない。

 富、名声、力。この世の全てを手に入れた姿が、成功なのだ。

 

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【本日の映画】

ウルフ・オブ・ウォールストリート (字幕版)

ウルフ・オブ・ウォールストリート (字幕版)

  • 発売日: 2014/05/14
  • メディア: Prime Video
 

監督:マーティン・スコセッシ
出演:レオナルド・ディカプリオジョナ・ヒルマーゴット・ロビーなど
制作:2013
実在の株式ブローカー、ジョーダン・ベルフォートの回想録を映画化した実録ドラマ。1980年代から1990年代のウォール街で、若くして大金を稼ぎ、その後証券詐欺の容疑で逮捕された彼の栄枯盛衰を見つめていく。

 

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